多治見駅から観光バスで小里城・登城口へ到着
登城口から100mほど登ると、御殿場跡(城主館)への階段へ到着
講師の説明に聴き入る
ここが御殿場跡だ
天文から元和にかけて70年間、小里氏の居館があった
宗家に嗣子がなく断絶
この地に大手門もあったが、興徳寺の山門として移された
土橋のような狭い尾根筋を登って行く
大手曲輪跡や二の曲輪跡を見ながらさらに登る
頂上近くには岩場の難所も
そして、一の曲輪(本丸)跡へ到着
ここまで距離600m、比高170mだ
天守台が素晴らしい
天守台は不等辺多角形で造られている
(写真では分かりにくいが・・・)
天守台の周りを帯曲輪が取り囲む
天守台の上には小里城城山神社という小さな社が祀られている
天守台からは城下の小里地区がよく見える
昼食の後、小里氏の菩提寺・興徳寺へ
興徳寺山門で、小里城の大手門を移築したものだ
住職の講話を聴くことが出来た
たいへん丁寧に説明してくれ、皆さん聴き入っている
小里氏三代の墓を見学、お参り
美濃焼の狛犬などの名物があるそうなので寄ってみる
世界一大きいという、たしかにデカイ!!
平成2年(1990)に制作され、高さ3.3m
すぐ近くに、巨大な茶壷があった
これも、もちろん世界一
高さ5.4m、重さ32トン
美濃焼で、13日かけて焼成されたそうだ
なお、この茶壷は興徳寺が保有する「茶壷」が原型だ
そして、登り窯(現役だ)
お城とは関係ないが、こういった地域スポットを訪ねるのも楽しい
次いで、妻木城士屋敷跡の見学
いくつかの区画に仕切られた広い空間が広がる
こちらは城主の屋敷跡だ。
かなり広い区画になっている
御殿屋敷の北側には家臣団の屋敷地が広がっている
近くの崇禅寺へ向かう。妻木氏の菩提寺だ
崇禅寺山門。妻木城士屋敷から移築された門が残るというが、この門だろうか
本堂も立派だ
庭もきれいに整備されていた
本堂脇を奥の方に向かって登り切ったところに、妻木氏の廟所がある
複雑に入り組んだ屋根に見入る
ここが御殿場跡だ
天文から元和にかけて70年間、小里氏の居館があった
宗家に嗣子がなく断絶
この地に大手門もあったが、興徳寺の山門として移された
久し振りのバスツアーで、金山駅前を定刻に出発し、新東名を東へ。島田ICで新東名を降りて、諏訪原城跡へ向かう。
諏訪原城跡ビジターセンターへ到着。
センター内の展示を見学。名高い丸馬出の模型があって、メンバーがしっかりと見つめている。
城址入口の案内図で、講師の先生の説明を熱心に聴く。
諏訪原城は武田流築城術の典型となる城址だ。守備だけでなく、攻撃のためにも備えられた三日月堀と曲輪がセットになった大きな「丸馬出」を残す。地形を巧みに利用した「後ろ堅固」の城だ。
また、本曲輪を扇のかなめとして扇状に曲輪を配しているので「扇城」ともいわれる。
早速、もっとも特徴的な場所、二の曲輪丸馬出へ。いわゆる三日月堀だ。
現在残る堀や曲輪は徳川氏によって改修された可能性が大きいという。
ここから富士山がとてもきれいに見えた。
城跡の向こうに眺める富士山も素晴らしい。
二の曲輪を守る外堀。巨大だ。
二の曲輪を進む。とても広い。
本曲輪へ。
本曲輪からは島田市街がよく見える。真ん中を大井川が流れる。
本曲輪の脇、内堀の中にカンカン井戸という井戸が残る。貴重な水場の一つだ。
そして、外堀の方へ回って、諏訪神社へ。武田勝頼が命じて、武田家の守護神・諏訪明神を祀った。
諏訪原城は、駿河から遠江に入る要衝の地にあり、高天神城攻略のための陣城として、攻略後は兵站基地としての役割を果たした。
昼食後は小山城址へ向かう。
吉田町の小山城の山麓に能満寺という寺院があり、そこへ立ち寄る。元寇の役より前に創建された由緒ある寺だ。
この寺の本堂前に巨大なソテツが生えている。「日本三大ソテツ」に数えられるソテツで、樹齢1000年を超え、国の天然記念物に指定されている。参勤交代の際に東海道を往来する諸大名が見学に訪れたという。
城域に入り、赤い橋を渡ると巨大な空堀があらわれる。三日月堀だ。
さらに奥へ進むと、三重堀がある。
模擬天守が立っており、登ってみる。この天守は犬山城を模しているという。
内部の展示を見学。扇形に広がる城域と、その前面を三重堀で守っている様子がよく分かる。
元々の小山の砦を山本勘助に兵学を学んだとされる馬場美濃守が大きく改修した。
この城を攻略しようとした徳川は11年間に及ぶ攻防の末、遂に攻め落とすことが出来なかったそうだ。
天守閣から眼下に、三日月堀が眺められる。
最後は牧之原市にある勝間田城へ向かう。
バスを降りてしばらく続く坂道を登り、勝間田城の入口へ到着。
すぐ三ノ丸に出る。ここでも講師の先生の説明に聴き入る。勝間田城は、勝間田氏が15世紀中ごろに築城したとされ、戦国時代以前の原型を残した貴重な山城と云う。
三ノ丸と二ノ丸との間にそびえる土塁。立派な土塁だ。
二ノ丸に入ると、礎石の建物跡が何カ所も残っていた。
本丸(本曲輪)へ到着。四方を小規模な曲輪と堀切で囲んで防御している。ここでは勝間田氏を偲び勝間田神社を祀っている。
本丸から東尾根曲輪を望む。巨大な曲輪だ。
この東尾根曲輪の先には5重に切られた堀切が並んでいて、東方向からの敵兵進入を防ぐ。
堀切の下から見上げると、たいへん深いことがよく分かる。
東尾根曲輪から本丸を眺める。この地の地形をうまく利用して縄張りされている。
戦国時代以前の「土の城」の典型だという。
城址入口の案内図で、講師の先生の説明を熱心に聴く。
諏訪原城は武田流築城術の典型となる城址だ。守備だけでなく、攻撃のためにも備えられた三日月堀と曲輪がセットになった大きな「丸馬出」を残す。地形を巧みに利用した「後ろ堅固」の城だ。
また、本曲輪を扇のかなめとして扇状に曲輪を配しているので「扇城」ともいわれる。
JR恵那で明智鉄道に乗り換え、岩村駅へ
駅前に「伝鴨長明塚」というのがあった。
口伝によれば、鎌倉を追われた鴨長明はここ岩村に逃れ、半年間住んで入滅したと説明書きがあった
最初の訪問は、鉄砲鍛冶・加納家の屋敷。
岩村藩の鉄砲鍛冶だ。
残念ながら、鍛冶場などは残ってないが鍛冶道具や鉄砲などが展示してあった
次いで、妙法寺というお寺へ。日蓮宗のお寺だ。この山門は岩村城の城門を移設したそうだ。
境内に「まくら塚」という塚がある。
信長に処刑された女城主らの怨霊を鎮めるために建立された供養塚とされる。
大将陣と呼ばれるところへ到着。
説明書きを熱心に読む仲間たち。
このすぐ上に「大将塚」がある。
長篠の戦で大勝した信長は、長男信忠に3万の大軍を授け、武田方の岩村城を包囲した。
信忠は本陣をこの地に置いたので、大将陣と呼ばれるようになったという。
城下街へ戻って、町家を見学した。
先ず立ち寄ったのは「木村邸」。江戸時代中期から末期にかけて栄えた問屋で、藩が財政危機になるたびに御用金を出して危機を救ってきた、と説明書きにある。
次いで、「勝川家」。商家として幕末に台頭し、こちらも藩財政に貢献したという。
次いで、「土佐屋」という染物屋。
城下街のはずれに城址エリアがある。
とりわけ目立つのは「太鼓櫓」。藩主邸の跡地に再建されたもの。
ここに、歴史資料館があり、内部を見学。
岩村藩の史料などがたくさん展示されていた。
見学を終えた後で、地元のガイドと落ち合う。ガイドの解説を聞きながら登城する。とても分かり易い説明で、たいへん良かった。
一の門跡。かつて、ここに櫓門があった。
畳橋跡。ガイドが丁寧に説明してくれる。
追手門跡へ。空堀にかけられていた畳橋をわたるとすぐ追手門だ。追手門の脇には天守に相当する三重櫓が構えられていた。
さらに登ると、菱櫓(ひしやぐら)跡へ。
地形に合わせて石垣を組んだのでひし形の石垣になり、その上の櫓もひし形だったという。
遠くに「六段壁」が見えてきた。
この六段壁は岩村城のシンボル的存在だ。
六段壁の脇を通って、本丸へ。本丸の虎口を登る。
本丸へ到着。
本来なら、ここから恵那山がきれいに見えるのだが、この日は中腹より上は雲の中だった。
遠くに、岩村の城下町が見える。
城下町へ戻って、一休み。そして帰路につく。
最初の訪問は、鉄砲鍛冶・加納家の屋敷。
岩村藩の鉄砲鍛冶だ。
名鉄新清洲駅から歩いて10分くらいで五条橋のたもとに着く。ここから清州古城の跡になる。
古城公園に入ると信長と濃姫の像が立つ。信長は桶狭間の方向を見据えていると、ガイドの解説。
清須古城へ。清須古城を示す石碑が立つ。
清須古城の中心に、「右大臣織田信長公古城跡」と彫られた石碑が立つ。
すぐ脇に小さな祠が。信長公を祀る祠だ。
古城の外に朱塗りの橋があり、その橋の脇に、本丸石垣がある。発掘調査で出てきた本丸の石で復元したもの。
朱塗りの橋の向こうに天守閣がそびえる。この天守は平成元年に建てられたもの。
天守閣の内部を見学した。
天守閣の見学を終え、食事会場へ。
途中に、本陣跡に立ち寄る。建物の多くは濃尾地震で焼失したが、唯一残ったのがこの正門。だから、門の向こうには普通の民家が建っていた。
住職に、総見院の沿革や信長公との関係などを解説していただいた。とても気さくに対応いただきありがたかった。
「焼兜」などの寺宝を鑑賞させていただいた。本能寺の変で焼け残った信長公の兜だと伝わる。
焼ける前の兜の姿を再現したもの。あとで被らせてもらったが、とても重いものだと思った。
また、とても珍しい信長公の肖像画。掛け軸になっている。今回、特別に披露していただき、お寺さんの好意に感謝。
さらに、円空の聖観音も披露してもらった。このお寺に所蔵する2体のうちの一つ。
境内には信長の供養塔が立つ。石碑を読むと、「當寺大檀那信長公大居士□霊」と読める。
さらに美濃路を北上し、稲沢市に入ってすぐのところに長光寺がある。向こうに見える楼門は稲沢市の指定文化財だ。
そして、こちらが地蔵堂(六角堂)。こちらは重要文化財だ。
地蔵堂の内部を拝ませていただく。住職の解説を聞きながら地蔵像を鑑賞。鋳鉄製の地蔵像で、とても珍しい。世の中に悪いことが起こる前に全身に汗をかくと云うので「汗かき地蔵」ともいわれる。これも重要文化財。
こちらは本堂。
境内の片隅には臥松水(がしょうすい)という井戸がある。織田信長が、この井戸水を愛飲したと伝わる。
境内入口に道標が立つ。「右ぎふ 左京都」と彫ってある。かなり古そうで、裏に文政二年(1800年代初頭)の彫りがあった。
清須古城へ。清須古城を示す石碑が立つ。
ロープウェイから降りてすぐの斜面に、見事なチャートの地層があらわれている。
金華山全体がチャートの岩盤でできているそうだ。
さらに登って行くと見事な堀切(切岸)が見える。
二の門周辺で石垣の解説を受ける。道三期のものと信長期のと両方が残っているそうだ。 これは、二の門下の虎口あとの石垣(信長期)。
二の門、下台所跡へ着く。
ここ下台所からは天守がきれいに望められる。
天守のすぐ下にある上台所へ着く。ここからの天守もきれいに見える。
天守へ向かう尾根を支える石垣。長さ30mくらいあるらしい。
草が生えていて、石垣自体はあまり見えなかった。
上台所からの眺望。
市街地の真ん中にみえる小さな山は鷺山(さぎやま)といい、斉藤道三が隠居していたところ。
濃姫もここで育ったので、信長の下に来てからは鷺山殿と呼ばれていたそうだ。
天守の石垣は古いものと新しく再建されたものとが混在している。
天守閣の内部も見学した。ガイドさんの説明があるので、分かり易い。
展示の一つ、信長像。信長の葬儀の時に二体つくって、一体は秀吉による火葬に。この像は残りのもう一体(のレプリカ)だそうだ。
再びロープウェイに乗って山麓へ下りてくる。そして、信長の居館(政庁)跡を見学。
この居館は、斉藤氏三代(道三、義龍、龍興)のころに造られ、信長が大改修したものだ。残されている大部分は信長期のものだが、この石段の見える地面は道三期のものだそうだ。
こういうことも、ガイドがいなければ分からないのだ。
信長期の居館跡を見て回る。
発掘調査の部分はシートで保護されている。
この辺りには岩盤を背景にした庭園があったようだ。かつて、この岩盤には滝が流れ落ちており、手前には池があった。
昼食後、バスで川手城へ向かう。
ここには川手城址の碑が立つのみ。
案内板によると・・・土岐源氏の三代守護職であった土岐頼康は美濃・尾張・伊勢三国の守護となり、革(川)手城を築き、以後11代まで200年間ここを居城とした。
近くの正法寺へ。川手城の北寄りにあり、土岐頼康により建てられた。ここも、石碑と小さなお堂が残るのみだ。
次いで、加納城へ。
歩いていくと、巨大な石垣が見えてきた。
本丸の周りには巨大な土塁が残っている。
この城は、関ヶ原戦後に、大阪方との備えのため家康の命で築城された、いわゆる天下普請。石垣などは岐阜城から持ちこんで造ったという。初代城主は、家康の長女・亀姫の婿、奥平信康。明治になって、建物は取り壊され、堀もすべて埋められてしまった。
石垣の下は埋められてしまった堀の跡。堀の幅はかなり広い。
城址から、かなり長い一本道を進むと、交差点の角に大手門跡の石碑があった。
さらに登って行くと見事な堀切(切岸)が見える。